おつかれ自分、失望から這い上がれよ
最悪だ。本当に最悪だ。
この世界に幻滅しきっている。
くそったれだ全く。
先日年内最後のショップを開いた。
自慢じゃないが、これまで私の作品はカートオープンと同時に完売が当たり前だった。
「カートオープンしました」と呟く暇もなく完売していた。
もちろん品薄商法を狙っているわけもなく、毎回その時出来る限りの数は用意している。
それがどうだろう、今回は50分経っても完売にならなかった。
開始数十分経っても半分しか売れていなくて、滲み出る脂汗ときりきり痛む胃と前日に発症していたぎっくり腰の痛みに耐えられなくなって、虚しさのまま完売を待たずしてそっとカートを閉めた。
そして失望に暮れた。
けれども実は宣伝のツイートを開始した時からいつもと違う雰囲気は察知していた。
私としては、新作をリリースするたびに自分の過去最高を更新している形だから、今回も例に漏れず素晴らしい物ができたと自負し、浮き足立っていた。
それがどうだろう、どうも周りの反応が薄い。
いいねとリツイートの数が圧倒的に少ない。
リプライも、常連さんから数件しかこない。
宣伝の時間帯が悪かったか?不備でもあったか?Twitterに不具合でも発生しているんだろうか。
勘ぐりまくった。
しかしある程度自分でモノを売ったことのある人なら分かるだろう。
「キャクの反応が薄い時の方が思ったより売れる」ときがある。
お目当ての商品に何かしらのアクションをしてしまうと他者の目に付く率が上がり競争相手が増えてしまうため、敢えてノーリアクションで虎視淡々と販売を待つ作戦なのだ。
私はその可能性に賭けた。
きっとみんなその作戦のために反応が薄いのだ。
そして毎度のこと安パイとしてもし売れなかったら、のシミュレーションもやっておく。
今までがラッキーなだけで今回は例外かもしれない。
何しろ今回は過去最高の値段設定にしてしまったからなぁ、なかなか手がでないかもなぁ。
その時は反省点をみつけて改善していかなければなぁ。
でもきっと大丈夫だ。良い物が出来たし、きっとキャクにも伝わっている。
結果は違った。
普通に皆の反応のまま、売れ残った。
単にキャクの琴線に私の作品が触れていないだけだった。
もっと言うときっと値段設定が高すぎたんだろうと思う。
たとえ琴線には触れても金銭はズレていたのだ。
ハンドメイドの作品の売買について、よく目にする言葉がある。
『原価』だ。
私も駆け出しの頃は材料費なんかを気にしたりもした。
でも活動を続けていくうちにだんだん原価についてはあまり考えなくなっていた。
とりあえず一つ売れれば全体の材料費の元が取れ、二つ目以降は一応の利益になるようにはしている。
暴利と思われるかもしれないけどこちらもボランティアでやっているわけでもないし、今回のように売れ残りのリスクも背負っているんだから、自分で作品を生み出せないが故に寝て待つしか出来ない人は私の言い値のまま払っていただかなければ仕方がない。
そして私が今値付けに一番重きを置いているのはデザインと気力、時間、自分の命だ。
言い過ぎだと言われるかもしれないけれど、作品を作り上げている最中は文字通り、命を削っている感覚になる。
寝ても覚めても作品作りに頭を占領され、自分の時間などなく二ヶ月ほどを製作に費やす。
一箇所のデザインに何日も悩み、またその表現の手法についても何日も悩む。
消費者たちが新作楽しみにしてます♡など言いながら自分の時間を過ごしている間も。
最終的に疲れ切って心身ともにぼろぼろになり地面を這いつくばったような精神状態のまま作品を完成させる。
しかもその辛さが作品毎に更新されている。
私は作家を初めてから背中に痺れが来るようになった。
ストレスで耳鳴りと難聴もある。
細かい作業が多い分目も悪くなったし、重たい機材を使うため腰も痛い。
最近の研究では座りっぱなしは短命に近づくそうだが、制作中はずっと座りっぱなしだ。
あげればキリがないほど体に不調をきたしている。
そうやって命を削って作り上げたモノを、はっきり言ってちょっとの色じゃ販売する気になれない。
それなりに見返りや喜びがないと。
それが結果お金だ。
純粋にいくら欲しいか、いくらなら自分の作品を手放せるか。
私は私の作品が手元から離れたらもうどうでも良くなるタイプで、キャクの手元でどう扱われても私の気持ち、時間、命には基本還元されない。
自分が納得したお金を頂けるからやっていけてる。
もちろん他の部分がよろしくなかった点もあるのだろう。
私は最高のものができたと思っているからどこがよろしくなかったかは知らないが。
それよりも今回私の命は消費者のお財布事情とは噛み合わなかった。
それに私は今ひどく落胆している。
もちろんキャクの財布も苦労の産物だと言うことは理解しているけれど、それを頂戴するほど私の人生を費やしたことは間違いないと私は胸を張って言える。
買うと言うヤツほど買わない。
買うと言って買わなかったお前には今後私の作品は一切売りたくない。
あとは発送の作業が残っているので、買ってくれた人には最大の感謝と敬意を持って送り出そうと思う。
今週のお題「自分にご褒美」
先述したようにネタがない私。
月曜日の朝、何を書こうかと思っていたらお題があったのでのっかることにした。
今週のお題「自分にご褒美」
浮き足立った年の瀬も迫り、なにかと自分へのクリスマスプレゼントを送りがちな今の時期にぴったりのお題だ。
私ごとだが、今年の3月から服を買っていなかった。
なにたった数ヶ月服買わなかっただけかいと思われるかもしれないけれど、元々服道楽なところがあって、服を着るのも買うのも趣味だった私からすると中々のこと。
その理由が昨今のコロナ禍で外出が減り、仕事も減り、収入も減り…というわけではない。
今年に入ってから 生まれ変わりたい 欲がすごかった。
とにかく生まれ変わり、何者かになりたかった。
作家と名乗りつつも目に見えてバズりもせず、努力せず何かのラッキーで世に名を馳せたいと煩悩にまみれくよくようじうじし続けて立ち止まってる。突然そんな自分がちっぽけに思えるようになって心底嫌になった。
それで生まれ変わりたくて安直ではあるが服をはじめ、身の回りのものを捨て始めた。
それは俗にいう断捨離とはちょっと違う感覚だった。
生まれ変わりたい自分
生まれ変わったときの理想の自分
生まれ変われないもどかしさ
生まれ変わる意味
生まれ変わる前の、つまりは今の自分
今の自分の意味
今の自分と理想の自分への剥離
突然自分に否定されることになった今までの自分
………
……
…
そんなことをぼんやり頭の片隅で考えながら、身の回りの整頓に努めた。
勢いで捨ててしまうのではなく、物によっては敢えて数週間、数ヶ月、捨てるのに熟考した。
元々断捨離が大好きな私は捨てるという行為にさほど抵抗がなく、思いつくとポンポンと「無」で捨てられるタイプの人間だったから、この考えながら捨てるというのは凄まじいストレスで、わーーーっとゴミ箱に投げ入れたい衝動に何億回もかられた。
それをグッと抑えて、思いを馳せ続ける。
そしてお陰様で出かけする時に着れる服が2着だけになり、この夏はその2着だけでどうにかやりくりした。
途中、良い歳した女のよそ行きの服が2着…と惨め感に襲われZOZOTOWNを覗いたりもしたけれど、結局購入に至る程どの服にも魅力を感じなかった。きっとまだ早い。
それからも重い腰を上げては虚な表情で少しづつ整頓し続けた。
何もかも捨てたわけじゃない。
実際家の様子は去年の今とほとんど変わってないように思う。
でもクローゼットの中は服がかかってないハンガーの方が多いし、たくさん服が詰まっていた引き出しは簡単に引き出せるようになった。
そしてついに先日思い立ち、数年かけて湯葉のように薄く伸びきって、私の体のどこもホールドできなくなった下着たちを総入れ替えした。
風呂から上がっておにゅうのパンツを身に纏い、鏡に映るいつもより少しだけ上を向いた尻を見たとき、気持ちが高揚した。
それから少しして新しい服を数着買った。
元々温暖な気候の土地だから冬服が少なめだったのもあったけど、処分しすぎてこれからの季節にいよいよ着るものがなくなったからだ。
必要に迫られながらの状況ではあるけれど、夏に惨め感に襲われ嫌になりながら選んでいた気持ちとは違った。
鏡に映った上向きの尻を見たときのワクワクやドキドキがそこには、ZOZOTOWNにはあった。
まだ全然生まれ変われていないけど、なりたい自分が着ている姿を想像して、とりあえずのご褒美。
新しい服は今日届く予定。
これは新しい趣味
さて、新しい趣味としてこのブログを始めた。
趣味のことを紹介するわけではなく、このブログ自体が趣味なのではっきり言ってネタがない。
私はほとんど友人がいない。
保育園の頃からの幼なじみ、中学生からの友達、作家になってから知り合った同業の友人。
以上だ。三人だ。
なんなら中学の友人に至ってはツムツムというゲームでハートをたまに送り合うだけでもう7年は連絡を取ってない。
さらには夫の転勤によって離島に移り住んで6年、ずっと引きこもって暮らしている。
つまり上記の友人たちと会う機会は滅多にない。もちろんこの地で友人らしい友人はいない。
この状況ついては自身でも改善するべきだと頭を捻り、時には夫からも何かしらのコミュニティに参加したらどうかと勧められることもあった。
ここで私の思う友情の始まりとはどう言ったものかを記しておく。
実は以前から存在は気になっていた二人。ひょんなことから目が合うようになり、そこからお互いの顔色を伺いつつもまず「今日は調子どうですか」なんて一言から始まる。ふふと微笑みあって、話が軌道に乗ったところでタイムリミット。あぁ、もう少しお喋りしていたいな…など思いながらもこの惜しさをグッと胸にしまって、じゃあまた、なんてその日は別れる。後日改めてお茶やランチなんかに誘ってみて、OKがもらえた時、ガッツポーズしながら着ていくワンピースをルンルンで選び、失礼のないよう親しみやすくて清潔感のあるメイクを施す。会えば楽しく、帰路に着くと突然あの時のあの話、もしかして気を悪くさせたかしらと少し落ち込んだ時にLINE。「今日はありがとうございました、またお時間ある時におしゃべりしましょう」それを見てなんとも言えない嬉しさが込み上げる。心が暖かくなる。そんな時間を繰り返していくうちに、いつの間にか胸の内を曝け出せる友人になっていた。
こんな感じだ。
これを読んだ人はもしかしたら恋愛の話かと勘違いしたかもしれない。
違う、純然たる友情の話だ。
こう言った素敵な友情の始まりを起こす気力なんて、アラサーの私にはもうない。
だから私の周りのお友達の面白エピソードなんてものもない。
ただ毎日嫌だなぁなどと思いながら続けている製作しかない。
大変弱った状況なのだ。
はてなブログの決め手
私はとある分野で作家として活動しているが、製作期間中はとにかく無駄に鬱っぽくなりやすい。
本当に、馬鹿みたいな、箸が転がったみたいな事でも鬱る。
気晴らしにTwitterを覗けば友人のツイートに、あれ?これ私のことかな?なにか気に食わない事でもしてしまったかなといちいち謎に気に病む。ツイートしても「あ、こんなツイートダサいかも…」とネガティブ拗らせて過去ツイートまで遡って削除したり。
極め付けは憧れの作家さんと友人が親しくリプなんか送り合ってるのを見て、たまらなく泣きたいような、逃げ出したいようなどうしようもない焦燥感に襲われて、死にたくなったりしてる。
まぁそんなことはどうでも良くて。
この鬱の矛先が友人に向かい、それが憎悪にメタモルフォーゼされる寸前で、この自分の中に渦巻くドス黒いクソみたいな感情を何処かに発散するべきだと思った。
そこで私が取り組んだのが新しい趣味を探すということ。
とにかく作家とは別のベクトルで夢中になれることが必要だと判断した。
要は暇なのだ。ひたすらに退屈でぴえんなのだ。
元来飽きっぽい私はどんなことなら無理なく続くのか模索した結果、ブログに没頭することにした。
絵を書いたりお菓子作りをしたり、パン教室に通ったり陶芸も視野に入れたが、一番お金がかからず自宅で簡単にできる点が引きこもりにはデカかった。
自分の発信を不特定多数に閲覧される可能性というのも魅力的だった。
よしじゃあそうしようと決めた時、サービスをどこにするか。
今流行のnoteが一番に頭に浮かんだ。
Twitterを主として活動内容を発信する私が目にする機会が多いからだった。
しかしnoteを日記のように気軽に毎日ポンポン上げている人を私は知らない。
私は数多のSNSで羨望の眼差しを得ている 手作りごはんのほっこりナチュラリストポエマーや丁寧な暮らしに対してだけ意識高い人々 のことを『無色透明系』と勝手に名付けそう呼んでいる。
noteはそう言った無色透明系の人たちや著名人がお洒落に活躍する場であって、生ゴミの思いの丈を思った時に好きなだけ発散するには少々居心地が悪い気がした。
だからと言って某海老なにがしのように、いっときの高橋英樹のように、アメブロで一日数回の記事アップもなんとなく私のポリシーと違う。てかアメブロはなんか恥ずかしい。ダサい気がする。
FC2ももちろん候補に上がっていた。何しろ作家としてはそこで発信している。
でもFC2ってなんか垢抜けないのよね。なんなのかしらあのほんのり薫る芋くささ。
なんとなくそれが嫌で除外した。
そのほかにもlivedoorやSeesaa、いろいろ検討した結果、はてなブログに落ち着いた。
はてなの少しスタイリッシュで尖ったつもりで悦ってる人の掃き溜め感が今の私にしっくりきている気がした。
今日私は作家としては一切机に向かっていない。その代わりどうしようもない程下らない記事を二つ書いた。
けど少し心が晴れた気がした。
祝・ブログ開設
毎日が退屈で仕方がない。
頭の中のもう一人の自分と堂々巡りの会話するのにも疲れた。
新しい風を自分の中に吹かせたい。
じゃあアウトプットしつつ頭の中を整理し、さらには脳内の新発見があれば良いなと思ってブログを開設してみるに至りました。
ここは誰かを満足させるような場ではなく、自分自身を満たすための場にしようと思う。